例の件について

フォロワーの皆さんにおかれてはご存知のこととは思うが、先日、私のとあるツイートがバズった。というか、より厳密にいうならば、「鍵垢である自分のツイートをフォロワーがスクショしたもの」がバズった。これである。

※注 しゃんはいさんに掲載の了承はとっています。

圧倒的大多数の反応は「自分じゃん」「泣いた」「たすけてくれ」といったものであったが、中にはこれが他者に向けた攻撃と取った人もいるらしい。結論から言うと、これは僕の自虐ツイートである。

流れとしては、

①女優が仕事を辞めるというニュースを見た。

②その女優は自分よりも年下にもかかわらず既に子供がいるらしい。

③自分の生活は根本的に中学時代から何一つ変わっていない。何やってんだろ、おれ... ...

といった具合である。

「妙に解像度が高い」「やけに限定的」などという指摘があったが、それはそのはずで、鏡を子細に見つめながらデッサンして出来上がったツイートなんだから、そりゃそうなるというものである。

あくまでも自分の悲哀を嘆いたツイートだったのだが、これほどまでの反響を得たのは正直意外である。突き刺さった人たちには今更説明の必要はないと思うが、中にはこのツイートの真意を汲めなかった人もいるらしい。そんな人たちのために、僕がこのツイートで一体何が言いたかったのか、少しばかり説明したい。

質疑応答

ここではしゃんはいさんのツイートにリプや引リツで来ていたご指摘に対して回答していく。

Q.社会的な責任とは何か?

A.これは言葉選びが悪かったかもしれない。言い換えるならば、「家族や部下、組織などの『自分が身を挺して守るべきもの』を持ったことがない」ということである。守るべきものを持ったことがない故、精神的にいつまでも「守られる側」を脱却できず、大人になり切れていない、そういうことである。

 

Q.アニメを見ることが趣味なのではないのか?

A.確かにアニメは好きだ。でもそうではないのだ。生活の中に萌えアニメときららコミックスしかないが、それらについても熱く語れるほど熱中しているわけではない。読んでいるのはアニメ化したものばかりだし、アニメ化した作品にしたってすべてを見ているわけではない。僕が萌えアニメを好んで視聴しているのはアニメが好きだとかどうとかではなく、ごくごくシンプルな話人生に根本的に向いていないからである。萌えアニメの世界は、現実と違ってやさしい。それは確かに"救い"かもしれないが、趣味とは言えないだろう。これが例えば能動的にそのクールやっているアニメをすべて見ているとかならば趣味といえるかもしれないが、自分の場合はごく限られた狭い界隈でしか共通の話題になりえない萌えアニメを細々と、受け身の姿勢で見ているに過ぎない。切実に、能動的な趣味が欲しい。雑談のネタに出しても引かれないものなら、なお良しだ。

 

Q.流行りのアニメとは何か?

A.具体的な作品名を挙げるならば、呪術廻戦、ワンピース、鬼滅、SPY×FAMILY、チェンソーマン、とかその辺のアレである。間違ってもコミック百合姫でもまんがタイムきららでもない。"""一般人"""寄りの人でも知っていて、見ている人が圧倒的に多い作品。それが流行りのアニメである。流行りのアニメには、少年漫画系が多いような気がする。僕は少年漫画系の作品が苦手だ。絵柄が苦手というのもあるが、価値観が違いすぎて無理だ。作品には、少なからず作者の価値観が通底するものと思っている。少年漫画の価値観は、どう見ても学生時代僕を虐めてきた人間のメンタリティである。耐えられない。団結を好む、「仲間」を重視するが、敵とみなした人間や調和を乱す人間には容赦しない───... ... ...。悲しい話だが、彼らにとって異端の排斥はある種のヒロイズムなのだ。

 

Q.流行りのアニメを追っていないことによって生じる問題とは何か?

A.この問題は実は根深い。多くの人間が見ている作品を見ていないことによって、共通の話題を失する、という問題ももちろんあるのだが、より問題なのは「流行りのアニメを『見られない』」という点である。先に述べたように、流行りのアニメとは、「見ている人間が圧倒的に多い作品」である。また、作品には作者の価値観が通底する。つまり、「流行りのアニメを『見られない』」ということは、「社会の大多数の人間が共有する価値観に染まれない」ということである。人間はそれぞれ一個の独立した別個体であるから、原理的に他人同士が理解しあう、ということはできない。それにもかかわらず、社会が円滑に運営されているのは、社会の大多数の人間は価値観を共有しているため、「たまたま」様々な状況下において似たような感情や感想を抱いているからに過ぎない。僕のようなタイプのオタクには、その「たまたま」は発生し得ない。価値観を共有していないからだ。これこそが昨今言われる「生きづらさ」の正体である。社会の大多数の人間が生きやすいのは、コミュニケーション能力に秀でているからではない。価値観を共有する人間に囲まれ、相互に理解しあっているような「錯覚」の中に生きているからというだけだ。論より証拠に、僕のようなタイプのオタクでも同族コミュニティの中では生き生きとしている。反対に、"""一般人"""がオタクコミュニティに迷い込んでオロオロしているさまを目にしたことも何度かある。普段ツーカーでコミュニケーションをとれている人間が、異質な人間に囲まれてオロオロするさまは見ていて実に痛快であった。まぁ、実社会では我々の方が圧倒的に少数派であり負け組なのだが。

 

Q.どこかで見たことがあるツイートのような気がする

A.僕は似たような内容のツイートを何度もポストしている。プチバズしたものも何個かあるので、それを目にしたのではないだろうか。

目標のない時代

このツイートがバズったのは、社会的な背景もあると思っている。現代においては、中世のような縋るべき宗教的信条もなければ高度経済成長期のようなわかりやすい人生の目標もない。ミクロで見てもマクロでみてもそれはそうだ。「価値観の多様性」といえば聞こえはいいが、言い換えれば「自分の人生の目標は自分で探してくださいね」というのと同義だ。しかし、生きるべき目標なんてそう簡単に見つかるものでもない。そこで参照にされるのが「社会的にあるべき姿」である。例のツイートは、要は「社会的にあるべき成人男性像」になれないコンプレックスである。価値観が自由になった結果、古臭い「あるべき姿」に回帰するというのは皮肉な話だが、こういう人は案外多いのではないか。だからこそあのツイートは拡散されたのだろうと思う。

もちろん、理想を言えば「あるべき姿」なんて忘れて生きたいように生きられればそれが一番いいのだが、とはいえ何分趣味がない。夢がない。やりたいことがない。毎日が昨日と今日の繰り返しで、新しいことは何も発生しない。授かり受けた生をただただ漫然と消費するばかりで、全く能動的に生きられていない。そんな灰色の生活を送っていると、女の子が、時に挫折を味わいながらも真っすぐに、ただ真っすぐに夢に向かって突き進んでいくキラキラしたアニメが本当に突き刺さる。具体的にいえば、ガルパンでありRe:ステージ!ドリームデイズ♪でありExtreme Heartsである。

おわりに

最後に、一曲歌って締めようと思う。

 

たすけて 地上の星
たすけてよ 地上の星

おしまい。